札幌高等裁判所 昭和57年(う)199号 判決 1983年3月28日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人斎藤正道提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。
所論は、原判決の事実誤認を主張し、被告人は無実であるといい、証拠関係について詳論するものである。
そこで、原審記録を精査し当審における事実取調の結果を加えて検討すると、原判決は「被告人は、昭和五七年三月一一日午前零時三〇分ころ、札幌市中央区南四条西二丁目一番地グリーンホテル四階四〇九号室において、丙野一男(仮名)所有にかかる現金一〇万円を窃取したものである。」旨認定しているが、右日時、場所において右認定のような窃盗が発生したことは一応認められるが(ただし窃取金額及び金員の所有者は後記のとおりである。)、その犯人が被告人であるとの点については種々の疑問があるように思われる。以下、その理由を説明する。
一原審及び当審証人丙野一男の証言、原審証人浅海良一、同佐藤昭二の各証言を総合すると、次の窃盗事件が発生したことが一応認められる。丙野一男(当時七〇歳)は、千歳空港内に観光土産品店をもつ会社の常務取締役であるが、昭和五七年三月一〇日千歳市内で用事を終えてから、札幌市内に出かけ、キャバレー、バー、トルコ風呂等で遊んだ後、午後一一時過ぎころ、原判示のホテルに宿泊の申込をし、同ホテル四〇九号室に入室したが、翌三月一一日午前一時ころ、フロント係を通じて警察に窃盗被害の申告をしたこと、これによれば、「同人は、右ホテルのフロントで宿泊の申込をし、四〇九号室に向う途中、一階エレベーター付近で三七、八才くらいの女性から『自分は、友達とこのホテルの五一〇号室に宿泊しているが、友達が外出したまま帰つてこないので、あなたの部屋でテレビをみて待たしていただけませんか』と言われたので、これを承諾した。それで、同女に自分が持つていた鞄二個を持つてもらい、四〇九号室に入つたところ、同女からテレビをみるのに百円硬貨がほしいといわれたので、自分は、同女を部屋に残して、一階のフロントへ行き一万円札を百円硬貨二〇枚と千円札八枚に両替をしてもらつて部屋にもどり、次いで、同女と一緒に廊下にある自動販売機から缶コカコーラ等を買つて部屋にもどつた。それから、同女と入浴し、ベツドで同女と肉体関係を結んだ。そして、翌一一日午前零時過ぎころ、同女は『友達が帰つてきたかどうか見てくる』と言つて部屋から出て行つたまま帰つてこなかつたので、不審に思い、ロッカーに入れていた自分の黒鞄を調べたところ、間違いなく入れていた会社の金、一万円札一六枚中一〇枚が紛失していた。それで、自分が一万円札を両替するためフロントに出かけた約七、八分の間に、同女に盗まれたものと思う。」という申告であつたことが認められる。
ところで、丙野一男の当審証言によると、同人は、本件とは別に、昭和五七年五月一二日にも右ホテルに宿泊し、所持していた鞄の中から会社の金八一万円を窃取された、その際街で会つた女性をつれて宿泊したところ途中から同女がいなくなつたので、その女性に盗まれた旨の被害申告を警察にしたことがあるのに、その後女性と宿泊したとの点は記憶がはつきりしなくなつた旨の不可解な供述をしていること等に照らすと、本件被害申告の内容じたいにも些かに疑問がないわけではないが、しかし、それ以上右疑問を強める証拠もないので、一応、同証人の供述するとおりの内容の窃盗被害があつたとしたうえで、被告人がその犯人であるかどうかについて検討する。なお、丙野の当審証言によると、右のようにして盗まれた金の金額は、約五万一〇〇〇円余りであつたことが認められる。
二原判決挙示の関係証拠によれば、本件窃盗の犯人が被告人であるかどうかについての積極証拠は次のとおりである。
(一) 被害者丙野は、前記の被害申告をした後、同日(三月一一日)札幌方面中央警察署に出頭し、鑑識課事務吏員成田摩早子において丙野から犯人の容貌等の特徴を聞いて犯人の似顔絵を作成しかつ犯人の特徴を書き留めた。この似顔と被告人の容貌を比較すると、両者は顔の輪かくなどの点で類似性が認められる。
次いで、同年五月四日、警察官において、丙野を警察署に呼び出して被告人の顔写真を示したところ、丙野は写真の人物は犯人に似ている旨供述した。この写真による犯人割出しの手続について、原審証人浅海良一は、前記鑑識課吏員が作成した犯人の似顔絵によつて、置引、すり及び売春事犯の前歴者の顔写真の中から、似顔に似ている被告人を含む年令三五ないし四〇才の八人の女性の顔写真を抜き出して、丙野に示したところ、同人はその中から被告人の顔写真を指示した旨証言している。
次いで、同年六月一日、警察官は、警察署において丙野に被告人を面通しさせたところ、丙野は、声の感じが似ていること等を指摘して被告人に間違いない旨供述した。
更に、丙野は、同年七月二一日原審公判廷において証人尋問をうけたが、その際にも、声、顔、小ぶとりなところ、顔に米粒大のほくろがあること等からみて、被告人が犯人に間違いない旨証言した。
(二) 被告人は、同年五月二七日右窃盗事件の容疑者として逮捕され、引続き勾留されて取調べを受け、その過程で右事件について否認したり自白したりしたが、自白調書として、被告人の司法警察職員に対する同月二八日付、六月三日付各供述調書及び検察官に対する同月四日付供述調書二通が作成されている。これらの自白内容には、部分的に事実に反する点等が含まれているが、大綱において被害者の前記申告で述べられている犯行の状況に合致している。
以上の各証拠を総合すると、一応、被告人が犯人であると認めることができるようにも思われる。
三しかしながら、更に検討を進めると、右のように認めることについては種々の疑問がある。
(一) 証人丙野は、当公判廷において、これまでの供述を全面的に翻し、被告人は犯人ではない旨証言した。この新証言によると、(イ) 犯人と被告人とは顔の輪かくや声が似ているが、背丈が明らかに違い、犯人は自分の鼻くらいの高さであつたが、当公判廷で被告人と並んでみると、被告人の背丈は自分の顎下くらいである(丙野証言によると、同人の身長は約五尺三寸五分(一六二センチメートル)といい、他方、当審の検証結果によると、被告人の身長は135.5センチメートルである。なお、前記鑑識課吏員の書き留めた犯人の特徴によると、犯人の身長は約一五〇センチメートルである。)。(ロ) 犯人に比べると、被告人の方が太り過ぎている。(ハ) 犯人の方がより美人である。(ニ) 顔のほくろも、犯人のそれに比べて被告人のは小さい(なお、前記似顔絵にはほくろは描かれておらず、鑑識課吏員の書き留めた犯人の特徴にもほくろの記載はない。)。(ホ) 動作も、犯人は少しせいかんな感じであつたが、被告人は鈍重である(なお、関係証拠によると、被告人は椎間板ヘルニヤで手術を受けたことがあり、昭和五七年二月一三日から同年三月一〇日まで右亜脱臼性股関節症で札幌市内の病院に入院しており、当公判廷では足を引きずるようにして歩行していた。)というのである。また、証人丙野は、これまで警察官に対し又は原審公判廷で誤つた又は虚偽の供述をした原因ないし理由等について、次のとおり証言している。警察官から被告人の顔写真を示されたとき、自分の記憶としては、警察官から八枚もの顔写真を示されたことはなく、ただ一枚被告人の顔写真だけを示されたうえ、警察官から「こいつは悪いやつだから、間違いなくやつているんだから」と言われ、自分としては、右写真を見て、「犯人より太り過ぎており、かつほくろも小さく、ちょっと違うんじゃないかという感じ」をもつたが、警察官から、「し細にいろいろ言われているうちに、これはやつぱり犯人かなというような方に心が傾いて」しまい、それで、写真は犯人に似ていると供述した。また、被告人との面通しの際も、被告人が自分を見て表情を変えるとか関心を示すというような反応を全く示さなかつたことや、また、身体の太り具合や顔立ちや動作やほくろの大きさの違い等からみて、犯人と違うように思つたが、やはり警察官から「必ずやつているんだから」などと説明されて、被告人を犯人であると供述した。更にまた、原審公判廷で証人台に立つた時点では、「ちよつと、犯人でないのかも知れないような感じ」もしたが、「いつの間にか、次第に、(被告人は)犯人であると思いこむように」なつていた。その日、法廷の廊下で本件の捜査をした警察官三人がきていたのに会い、警察官の一人が、独り言で「これが白だつたら、メンツ丸つぶれだ」というようなことを言つていたのを聞いたが、そういう警察官の言葉に影響されたとも思われるし、また、自分の心のどこかに「犯人とは違つていてもなんでもいいから、被告人を犯人にしてしまおう」という意識が働いていたかも知れないが、声や顔の輪かくが似ていたこと等から、被告人を犯人に間違いないと答えてしまつた旨証言している。
当審証人丙野の以上の証言は、具体的かつ詳細で心情を率直に語つているものであり、その大綱は十分信用できるように思われる。このことに徴すると、証人丙野が警察官に対し被告人の顔写真をみて犯人と思う旨述べ、警察署における面通しの際や原審公判廷において被告人を犯人に間違いない旨述べたことは、すべて信用することができないといわなければならない。
(二) 次に、被告人は前記のとおり捜査官に対し犯行を自白しているが、被告人は原審及び当審公判廷において終始これを否認し、原判示のホテルには行つたこともなく、被害者に会つたこともない旨供述しており、その供述態度は真摯なものと認められること、また、右自白内容は大綱において被害者の申告する犯行内容と合致しているが、例えば、被害者の当審証言によると、同人は当夜大型の黒色鞄と小型の茶色鞄の二つを持つておりそのうち現金を入れていたのは黒鞄の方であることが認められるのに、自白によれば被害者の鞄は二つとも黒色であり、しかも小さい方の鞄の中から現金を盗んだ旨供述している点で事実に反すること、更に、自白によると、右鞄の中から一万円札一〇枚を盗んだというのであり、これは被害者の警察官に対する申告による被害金額と一致するが、被害者の当審証言によれば、一〇万円を盗まれたというのは誤りで、せいぜい五万一〇〇〇円余りを失つたにすぎないことが認められるから、この点においても自白は微妙に事実に矛盾し、自白で一〇万円を盗んだと述べたのは捜査官の誘導の所産にすぎないと推認されること、更にまた、被告人の原審公判廷における供述によると、被告人は逮捕当日午前六時四〇分ころ、警察官がきて用件も告げられないで警察署につれて行かれたうえ、本件の窃盗をしたであろうといわれ、自分としては覚えがないので種々弁解したが、全く聞いてもらえず、数人の警察官が入れかわり立ちかわり来て、ああだろう、こうだろうと誘導されたので、自分としては嫌になつて「御自由に」といつて、警察官の作成した供述調書に署名指印した旨述べ、また、検察官に対しても、真実を述べても聞いてもらえないと思つて嘘の自白をした旨供述していること等を総合すると、被告人の右自白の信用性にも疑問がある。その他被告人と犯行とを結びつけるような物的証拠は何一つ存在しない(警察官が原判示の部屋に臨場したというのに犯人の指紋も発見されておらず、また、被害者の新鮮な記憶に基づき誘導の介入もない時期において前記鑑識課吏員によつて書き留められた犯人の着ていたという黒いブラウス、黒い細いズボンが被告人方から発見されたという形跡もない。)。
なお、当審の最終弁論において、検察官は、「原審における丙野証言が事実に反することが明らかになり、また原審において検察官側から提出した調書に重大な欠陥があることも明らかになり、本件について有罪の証拠がないと思料するので、被告人に対し無罪の判決が相当である」旨の意見を述べている。
以上によれば、原判決には事実の誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。
よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により本件について左記のとおり自判する。
本件公訴事実は前記原判決の認定事実のとおりであるところ、これについて犯罪の証明がないから、同法三三六条により、被告人について無罪を言い渡す。
(渡部保夫 仲宗根一郎 大渕敏和)